(7)「風日庵様が別室で・・・」(7)それで、また別室に案内されていった。 部屋に入ると、権大納言と中納言にあと二人の計四人が座っていた。座敷での陽気な雰囲気とは違う緊張した、空気が感じられた。おもむろに権大納言が、 「この月(五月)の一日、前右府(注1)信長殿が攝州より上洛したのやが、まだ、石山本願寺と荒木摂津守にてこずっているようや。三日の早朝に安土にお戻りになった。十一日に天主が竣工し居を移すゆうて、上機嫌だったそうな。ただ、菊亭(注2)、徳大寺(注3)ほか二十数名の公家の一行が挨拶に行ったんやが、なんや、顔にでんぼ(注4)が出来たゆうて会えなんだそうや」 「へ~え、顔にでんぼができていたんでっか」 「そうや、それで、そのとき、誰かが南海丸が堺に帰ってきたゆうことを、京都奉行の村井長門守に言ったらしい」 「ふ~ん、それでは長門守から、信長の殿さんの耳に当然入っていますわな」 「また、安土よりなにかゆうて来るかもしれんが、気ぃ付けや」 「はい、気ぃ~つけるようにいたします」 おどけたように言うと、みんな笑った。 「前に一度、お前の船貸してくれ言われましたのやけど、なにしろ交易船ですので、季節の風しだいで動かさなあきまへん。で、断りました。今では九鬼水軍が安宅船(あたけぶね)や甲鉄船造って、毛利の水軍を打ち破ったので、もうゆうてきまへんけど」 「そうや、あれは去年の十一月のことやったなあ。木津川で毛利方の水軍六百艘がことごとく沈められたんは」 中納言が感慨深そうに言ったので、みんなすこし静かになった。一人の公家が本願寺を中心にして描かれた、信長軍と本願寺軍の配陣図をふところから取り出して、広げた。渡辺橋をはさんで両軍の主力が陣を構えており、天王寺には本願寺方の、紀州・雑賀の鈴木孫市の名前が、その指揮下の三千の鉄砲隊とともに書かれてあるのをちらりと眼の隅に収めた。鈴木孫市には水夫の世話をしてもらった事もあり、友でもある。助左衛門は図を手で指し示して説明した。 「本願寺の御坊に兵糧を入れようとすれば、敷津(しきつ)の浦から下中嶋(しもなかじま)の南側を通る木津川を遡るか、下中嶋の北側、堂嶋(どうじま)との間を通る、二通りしか方法がおまへん。しかも、いずれも敷津の浦をとおらねばならず、そこに待ち構えておれば必ず相手は決戦を覚悟せねばなりません。好むと好まざるとにかかわらず、です。南海丸をもってしても甲鉄船六艘を相手に勝ちを収めるのは難しいことやと思います。船長十二間、船腹七間の鉄張りの大船で、何挺の大砲を積んでいるのかは知りませんが、櫓が数十挺で風がなくとも、自由に向きが変えられますので、しぶとい相手となるでしょう。それと・・・」 「それと?」 (続く) [注1=さきのうふ、前右大臣、注2=今出川大納言晴季、注3=大納言公維、注4=腫れ物のこと] |